日本の新首相と執権党たる民主党は2003年の日弁連勧告文を想起せよ
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日本の新首相と執権党たる民主党は2003年の日弁連勧告文を想起せよ
  • 金鍾洙
  • 승인 2015.10.04 12:51
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(2009年) 第5次関東朝鮮人虐殺現場研究を終えて
김종수(1923한일재일시민연대 대표)
김종수(1923한일재일시민연대 대표)

 

日本の新首相と執権党たる民主党は2003年の日弁連勧告文を想起せよ

 第5次関東朝鮮人虐殺現場研究を終えて

 

「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復を求める日・韓・在日市民の会」

韓国側常任代表 金鍾洙(キム・ジョンス)

 

今回は埼玉と群馬地域だ。「1923年9月の真実」を探しに出る5回目の現場研究である。その間3次までの現場研究は日本で行われた。東京都横網町公園内にある東京都復興記念館、墨田区の荒川河川沿いの鳳仙花畑、千葉県の観音寺と彼らを慰霊するために韓国人たちが建てた普化鐘樓、虐殺された朝鮮人の遺骨が発掘された高津なぎの原(現・八千代市)、習志野朝鮮人捕虜収容所、船橋送信所などであった。そして第4次現場研究は韓国木浦 (モッポ)の新安(シンアン)島に、虐殺犠牲者の遺族たちが作っておいた、遺骨の入っていない仮の墓を訪ねた。まだ韓国では虐殺犠牲者の遺族の会さえないのが実情である。

第5次現場研究の地である埼玉と群馬地域は、他の多くの地域での関東朝鮮人虐殺事件とははっきり異なるところを見せる。ほとんどの地域で軍隊と警察あるいは民間の自警団が合同作戦で朝鮮人を虐殺したのとは違い、この埼玉と群馬地域は地震の被害が全然なかった地域にもかかわらず、ひたすら日本政府が流したデマのみを信じて興奮したこの地域の自警団らが朝鮮人たちを大量虐殺したのである。

現場研究の参加者は韓国の安城、城南と日本の東京、北九州からの10代から70代までの人たちで、韓国·日本·在日の学者、活動家、学生、市民など、まことに多様であった。年令と国籍そして住む所は違ったが、「1923年9月の関東」に向けるその心はいずれ劣らぬ真剣さに満ちていた。

全体の準備は田中正敬先生(「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復を求める日・韓・在日市民の会」日本側常任代表)が引き受けて進めた。彼の準備は緻密だった。コースに従って実際に研究団が移動する時の交通手段を使って事前に五往復しながら、各地でこの事件と係わった一番初めの、或いは一番古い、一番重要な中心的人士たちに案内者になっていただくことに成功した。

第5次現場研究の事前学習を始めてから事前現場踏査までの間、ずっと心から離れないことがあった。それは1923年9月、町のあちこちに隠れている朝鮮人を探し出そうとする、まるで部屋の中のしらみをとる時のような充血した目、燃え上がる怒りの実体を捕捉したいという思いであった。「何のためだったのだろう?」、「何が彼らをあれ程怒らせ、残酷な殺人魔に変えたのだろうか?」、いや、「当時の自警団員たちが殺人魔でないとしたら、彼らは朝鮮人を自分たちとまったく同じ人格を持った『人』と思わなかったのではないだろうか?」

6月29日、プログラムの下見として朝鮮人の墓と追悼碑を事前に回ってみた。千葉の普化鐘樓のほかは故国から虐殺犠牲朝鮮人たちを訪ねて来た足跡は見あたらず、たぶん「初めてではないだろうか?」という言葉を鄭宗碩先生(「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復を求める日・韓・在日市民の会」在日側常任代表)から聞いた。朝鮮人の墓と追悼碑には1923年からの由来を知る何人かだけが「先祖の代の罪過」を悔いて花と線香をあげるだけで、犠牲者たちの故国、故郷から訪ねて来る人は今まで全然なかったというのだ。ああ!、私たちが初めてだというのか?、この長かった歳月の間…。

事前踏査を終えていろいろ複雑な気持ちを抱いてまた韓国に帰って来た。現場研究に参加するアヒムナ平和学校の子供達と討論をした。この長い歳月の間の心の無さをどうすれば赦してもらえようか?、「そうだ、塔婆だ」

赦しを求める心を込めて、現場研究団の真実究明に対する意志が詰まった塔婆を犠牲者たちの墓と碑に捧げる事にした。木は韓国の松にしよう、そしてそこに私たちの心を込めよう。

【朝鮮人虐殺の真実究明をやめることはありません】

一月が瞬く間に過ぎ去った。

8月10日午前、子供達より先に東京で姜徳相先生(「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復を求める日・韓・在日市民の会」共同代表)に会ってインタビューをした。戒厳令と朝鮮人虐殺との関係をもう少し深く調べるためだった。姜先生は幾つかの重要な事実を解らせてくれた。

第一に、1923年の戒厳令はデマに便乗して宣布したのだが、その実、日本は明治維新以後、準戦時体制を保ったまま終始朝鮮を「敵」と考えていたということである。そうして日本は朝鮮東学農民戦争で5万名余を虐殺し、朝鮮義兵2万名余に加え、3.1万歳事件では手にただただ太極旗を持つだけの朝鮮民衆7~8千人を虐殺、満州の間島でも3万名余を虐殺した。これらの事件を見て分かるように日本は朝鮮人を常に「敵」と考えていたのだということを教わった。

第二に、関東大震災当時自警団に参加した在郷軍人の相当数が、以前に朝鮮人虐殺に参加した経験がある人々だったし、次期権力を担うことになっていた者たちも、大部分が植民地朝鮮で3.1万歳事件を弾圧した張本人であるか、または満州の間島で朝鮮独立軍逮捕に関与した人々であったから、戒厳令や流言蜚語が無かったとしてもこれら自警団員たちのうち相当数は朝鮮を「敵」と看做したに違いないということである。

第三に、アジアで育ちつつある被圧迫民衆の自覚と連帯の萌芽が、「戒厳令と虐殺」を武器にした日帝の侵略主義政権によって完全に芽のうちに切り取られたということである。

第四に、朝鮮人虐殺に対する厳しい責任追及がなされぬまま、結局、大正14年(1925年)に政府と軍人によって「治安維持法」が作られ、その後、民主化運動と自由の芽が摘み取られてしまう結果がもたらされたということを解らせてくれたのである。

8月10日午後、本格的な現場踏査に出る前に、山田昭次先生(「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復を求める日・韓・在日市民の会」共同代表)が埼玉·群馬地域での虐殺に見られる特徴を説明してくださった。山田先生は今朝の大雨で、もしや交通途絶でもと心配なさって朝早く急いで家を出られた。早く到着されて参加者達を待っていらっしゃった。講義を始めながら渡してくださった資料は力なくよろけるような筆づかいで、韓国から来た人たちのために直接翻訳なさったハングルのものだった。ご老体の熱情に感謝しながらも、しかしあまりにも弱くなられた山田先生の体力のありようが筆跡だけでも十分に伝わってくるのを感じた。

 

8月11日、本格的な現場研究が始まった日の夜明け、疲れてぐっすり眠っていた研究団はホテルがひどく揺れる地震によって、真っ青な、完全に緊張しきった顔で朝を迎えた。1923年9月の朔日に地震で始まった虐殺事件の只中に入って行こうとする研究陣には呆気にとられるタイミングであった。

東京から吹いて来る熱い都市の風が集中的に吹き寄せ、真昼の最高気温が40度を上回るという埼玉県の天気が、前日降った夕立によって気温が予想より低くて幸いだった。しかし、この程度の蒸し暑い天気だけでも研究者たちの気をそぐには十分だった。

この度の現場研究活動のために、日朝協会埼玉県連合会の高橋隆亮理事、埼玉県歴史教育者協議会の関原正裕先生、亜細亜大学法学部の山岸秀先生、埼玉県朝鮮人強制連行真相調査団の石田貞日本代表、「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会の猪上輝雄事務局長等、みなさんが周到な準備の上で詳細な説明をして下さった。そして、真相究明のための根気強い努力の成果等も聞かせてもらい、お会いしてほんとうに勉強になった。

他のどの地域でもそうだったが、特に虐殺された同胞の名前三字が刻まれた姜大興 (カン・デフン)の墓、そして故郷の村の住所まで刻まれた具學永(グ・ハクヨン)の墓の前では堪えていた涙がどっと溢れてしまった。86年が経って初めて訪ねて来たという罪の意識のため、また、祖国に徹底的にそっぽを向かれた在日同胞の哀れな寂しい姿を見るようで…。

「朝鮮慶尚南道蔚山郡廂面山田里」、この故郷を発って東京を経て埼玉に入って来た具學永は虐殺された当時は28歳で、飴売りをして日銭を稼いでいた。東京で地震が起きたという消息を聞いてすぐ後、「ただ朝鮮人という理由」だけで死ぬこともあり得るという話を伝え聞いてからは危機を直感して寄居警察分署に入って行き保護を要請した。初めて安心したのか、「自分を保護するために迷惑をかけてすまない」と寄居警察分署に生え出た草を抜きながら心の安定を図っていた時に、興奮した隣村の自警団が警察に脅しをかけて署内に居た具學永を引きずり出したあげく、ついには数十人が掛かって日本刀と鳶口で無残に殺害した。

このようにして殺害されてから86年が過ぎた今日初めて、そして植民地から解放されてから64年が過ぎて初めて故国の人が訪ねて来たのだった。花を花瓶に挿し線香を立てた後、韓国から持って来た松の板の上に研究団の心を刻み込んで塔婆を碑の後に建てた。そして首を垂れて静かに心を固める。

【朝鮮人虐殺の真実究明をやめることはありません】

新宿駅で沢山の人々が塔婆を持って歩く私の周辺を風が触れるように、そんなふうに触れながら擦れ違って行った。或いは私たちも無心に関東大震災朝鮮人虐殺事件とそんなふうに擦れ違ってしまったのかもしれない。真相調査を承諾しないで隠蔽と歪曲で一貫して来た日本政府によって、そして解放後にも真相調査すら一度やろうとしない大韓民国政府の心の無さも加わって、徹底的に無視されてこんな無意味な歳月が流れたのである。

今こそ無念のうちに殺された人々の最小限の名誉回復が必要であり、また、この事件に関する日本弁護士連合会人権擁護委員会の勧告を、新たに執権する民主党と鳩山新総理は深く心に刻む必要がある。

1、(日本)国家は関東大震災直後の朝鮮人、中国人の虐殺事件に関連して、軍隊による虐殺の被害者、遺族、そして虚偽事実の流布等の国家の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対してその責任を認め謝罪せよ。

2、(日本)国家は朝鮮人、中国人虐殺の全貌と真相を調査してその原因を明らかにせよ。

 

2007年に組職された「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復を求める日·韓·在日市民の会」は、日本政府に事件の正しい歴史清算を促すために次のような事をしていこうと思っている。

まず第一に、国際社会に対する訴えである。国連人権理事会をはじめとする国際人権機関に報告することを通じて事件を国際社会の舞台で明らかにしていくために2010年人権理事会に問題を提起する予定だ。ユダヤ人ジェノサイドやアルメニアンジェノサイドはよく知られているがコリアンジェノサイドは全然知られていない。日本軍「慰安婦」問題や南京大虐殺と共に世界史的事件として語る必要がある。そうするために国際的なNGOネットワークの協力を受ける必要がある。日本政府に対する責任追及(真相解明、事実の承認、お詫び等)を進めるためにも、関係政府(韓国、朝鮮、中国)に適切な対応を要求するためにも国際社会に対する訴えが重要だからだ。

二番目に、日本の裁判所での訴訟の可能性を打診しようと思う。それは「日本政府の違法確認訴訟」だ。被害者や遺族に対する賠償·補償を論ずる以前に、何より日本国家が事実ではないデマに便乗して戒厳令を宣布することで朝鮮を「敵」と思うように仕向けて無差別虐殺に至らしめた責任を問おうというもので、日本の民衆が計画的に朝鮮人を虐殺するようになった背後に居る日本国家の責任を問おうというものである。

三番目に、民衆法廷の可能性だ。日本軍性奴隷制(「慰安婦」)問題を裁判した女性国際戦犯法廷、朝鮮戦争時の国際連合軍の戦争犯罪を裁判したコリア戦犯民衆法廷、アフガニスタンでのアメリカの戦争犯罪を裁判したアフガニスタン国際戦犯民衆法廷、イラクでのそれを裁判したイラク国際戦犯民衆法廷のように、国際的な協力の下に民衆法廷を開いて真相と責任の所在をはっきりさせる事である。

四番目に、日本の議会に真相究明のための特別法制定を促す事である。54年間の自民党独走体制が民主党体制に変わった。ある人は「今度の選挙の結果は『カレーライス』から『ライスカレー』に変わっただけ」と低い評価をしもする。だが、日本の政権交代に対する、植民地清算を望む韓国の歴史NGOの期待は当然ながら甚だ大きい。この機会に植民地時代の過去を正しく清算して平和な新しい韓日関係を築いていこうという希望を持っている。そしてその出発点は、隠蔽し歪曲して来た植民地時代の過去の正しい真相調査のための特別法制定であるべきだと見ている。ついては、日本の内に於いて真の韓日平和のために努力する議員の方々を捜して特別法制定案を発議できるように協力すると共に、議会で議決されるよう最善を尽くしていかなければならないであろう。

もちろんどれひとつたやすい事がない。しかし国家や政治の側が自らすすんですべき事をしない限り、真実究明をあきらめず続ける以上は、結局は市民(民衆)が進み出るしかないであろう。真相究明のための韓·日·在日の連帯は1923年に断ち切られた国際的連帯の希望を再び芽吹かせる事になるであろう。

 

 

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