(2009.6)第4回 関東大震災朝鮮人虐殺 真相究明のための国際シンポジュウムに参加して
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(2009.6)第4回 関東大震災朝鮮人虐殺 真相究明のための国際シンポジュウムに参加して
  • 山本すみ子
  • 승인 2015.10.04 12:56
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去る3月28日 韓国ソウルにあるキリスト教会館で上記の会が開かれました。日本からは、在日韓国人、ドイツ人、を含め15人が、全体では150人位が参加、傍聴しました。特に今回は韓国人の若い参加者が多かったように感じました。

会は、まず姜徳相先生の基調報告から始まりました。テーマは『独立運動・不逞鮮人・虐殺』、しかし残念ですが、体調を崩され映像での参加でした。次に、ここからは討論という形で進められました。日本からの研究者の主張提言に対して、韓国人がどう受け止めたかと提起していきました。

山田昭次先生の『関東大震災の朝鮮人虐殺事件の歴史的な意味と国家責任』というテーマで提起して、韓国の民族問題研究所 研究室長の朴漢龍先生が、前田 朗先生の『コリアン ジェノサイドとは何か』の主張に対して 韓国挺身隊問題対策協議会 常任委員の尹美香先生が『国際連帯を通じたコリアン ジェノサイド解決への提案』を行い、最後に、弁護士で元日弁連人権擁護委員 関東大震災事件委員会委員長の梓澤和幸先生の『日弁連勧告の趣旨と再発防止』の提案に対して、弁護士、民主社会のための弁護士会会員である魏大永先生が『関東大震災における朝鮮人虐殺と日本政府相手にする訴訟の展望』という内容で提言がありました。

私は、韓国側の人たちの提言に関心を持ちました。それぞれの方たちが、それぞれの場から取り組みの体験を通しての提言だったと思ったからです。

それぞれに共通していることは、日本政府に関東大震災の朝鮮人虐殺の真相を明かにし、その責任を明らかにし、謝罪せよということです。それを闘いとるために、どのように、どんな方法で連帯を通してやっていくのかが大きな課題のように思えました。それで提言されたのが、①関東大震災朝鮮人虐殺を世界史の中に、ジェノサイトとして位置づけること。これは、前田先生の提言に対して、受け止め、なお現在に至っても日本社会の中で在日朝鮮人に対してのジェノサイドは継続していると言う意見もありました。そして、②国際人権法を活用して、コリアンジェノサイドを国連に積極的に提起する。それは、日本軍挺身隊問題での取り組みや闘いに学ぶ提言でした。

また、日弁連の日本政府に対する勧告は、虐殺の責任の主体が明らかになったことはこれからの取り組みに意味あることと確認されました。 

翌日、私たちは、ソウルを出発し木浦へ向かいました。関東大震災時、虐殺された朝鮮人の遺族に会い、お墓参りをするためです。ソウルから高速でしばらく走って行くと穀倉地帯の湖南平野に出ました。今も田んぼが広がっていました。まだ田植えにはちょっと早い時期ではないので一面に稲がと言う風景ではありませんが、たわわに実り穂が垂れ下がる風景を想像してしまいました。そういえばこれから行く、木浦もその手前にある郡山の港も日帝時代には、この地域で作った米を収奪して日本に運び暴利を貪っていた日本人がいたのをふと思い出しました。1903年頃湖南平野の肥沃な土地に目をつけた土地ブローカーたちが、大金を懐に入れ、ここへやって来て土地を買占めたそうです。その一人長崎からやって来た熊本利平という男は、当時の金額で3000円を手に土地を買いあさり「全羅北道の地主王」とまで言われほどになり、農事経営までやり始め、米を収奪そして郡山の港から日本に送り暴利を貪った人だ。日帝の植民地化と民間人の土地買い集めとあいまって、朝鮮人の暮らしは、米を作っても米が食べられない生活に陥ってしまったのではないか。

木浦で遺族の金大元さんたちに出会い、そこからフエリーで島に向かいました。

船の中で、遺族の金大元さんは一枚の名前が書かれた紙を取り出し私たちに見せてくれました。そこには虐殺された朝鮮人の名前(金さん一族と李さんの名前)と遺族の名前が書かれてありました。遺族の名前にはもうすでに亡くなられた方もありました。

1時間ぐらいで島に着き、お墓に案内してくれました。

「今日、この人たちの(名簿を見せながら)墓を回ります。どの墓にも骨は埋まっていません。それどころかどこで死んだのか、虐殺されたのか分からないのです。」と話し始めました。

金大元さんは、おじさん(金光振さん、お父さんのお兄さん)の遺族です。金さんの一族の中に、金東珍さんと言う人がいます。日本に最初に行った人です。生活のため家族を置いて行かざるをえなかった人です。彼は、東京の浅草橋で洋服の縫製技術を身に着け暮していけるようになったので、村から一族の4人の男性を呼び寄せたそうです。勿論その中には、結婚して子ども妻を置いていった人もいれば、まだ結婚してない人もいたそうです。5人は一緒に住み仕事をしていた浅草で震災にあい、虐殺されてしまいます。が東珍さんだけは血だらけになりながら日本人の家に転げ込み助けを求め、命からがら朝鮮の自分の家に戻ってきたそうです。私たちはその家にも行きました。今は廃屋になっていますが、遺族の方たちはお子さんお孫さん皆ソウルに住んでいるそうです。家の目の前には静かな海が広がり、隣の家との境には大きな木が根を張っていました。きっと昔と変わらぬ風景ではないでしょうか。家に戻ってきた東珍さんは、

『日本人は惨いことをした。無残な殺し方をした。竹槍で突いて殺したり、刀で斬って殺したり、のこぎりでバラバラにしたり、』『悔しい、悔しい』とよく言っていたそうです。言葉にはならない悔しさ、いたたまれなさ、肉親を目の前で殺された者の想像を絶する思いを、私たちはこの静かな海の見える庭で聞きました。大元さんは最後に、

「東京の慰霊堂がある所が被服廠だったと聞きますが、何かおじさんたちの関係がつかめないかと思っているんです。」と語っていました。真相究明がなくして、国家の謝罪なくしては遺族の悲しみも消えることがないとつくづく思いました。

お墓を回り追悼しながら、守る人が絶えてしまった墓を見るにつけ、時間の余りにも長く経っていること感じました。また、お骨のない墓を作る遺族のつらさや悲しみを、虐殺された人々6000人の何倍もの人たちが感じたであろうか。姜徳相先生の『戒厳令なかりせばあの大虐殺は・・・・』が頭を過ぎりました。

最後に、李共基さんのお墓で追悼チェサをやりました。お墓にシンポジュウムの時の幕を被せ、ご馳走を並べ灯りをともしました。黙祷。

李共基さんは、兄弟3人で日本に行ったそうです。が長い間消息が分からず、行方不明でした。金大元さんが、町役場で戸籍を取り寄せ調べてみると、1923年9月1日午後8時死亡となっていたそうです。その後、弟さん2人も同じ日に死亡と言うことが分かったそうです。『震災で亡くなったのだな』と長いこと思っていました。しかし、最近 山田先生の本が韓国で翻訳出版されたので読んでいるうち、虐殺されたのではないかと強く思うようになったとお孫さんの李ソンべさんは話してくれました。お墓での一人ひとりの物語はまだまだ続きました。真相の究明を急がねばと本当に強く思います。

金大元さんが最後に「今日、日本人を含めお墓を一緒にめぐって、みんなの気持ちや心に触れることができ、余生長くない私には、本当に明日死んでも悔いはないと思いました。

本当にありがとうございました。このような人がいると知り、感謝申し上げます。又、キムジョンスさんに感謝します。歴史は1000年もそれ以上も消えるものではありません。時間をかけても、絶対あきらめず、取り組んでいきましょう。」

 これに答えて前田先生が代表して、真相究明に共に取り組んでいく決意を述べてくださいました。ここにささやかだけれど力強い連帯が生まれました。

 シンポジュウム、遺族の方と共にしたお墓での追悼を通して、私は横浜へ帰ってから真相究明に努力していこうと更なる決意をしました。

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